我、未だ木鶏足りえず

2018.11.08

いつだっか・・・昭和の名力士 双葉山のエピソードと一緒に『我、未だ木鶏足りえず』と言う言葉と由来について月刊誌『致知』に紹介されていたのを読んで知った。

 

昭和の名力士、双葉山は69連勝の大記録を作ったのち敗れた。70勝を賭けた大勝負に敗れた夜に、双葉山が尊敬する先輩にあてて打った電報の文字が「ワレイマダモッケイタリエズ」だったそうだ。
「モッケイ」とは「木鶏」、つまり木でできたつくりもののニワトリのこと。

 

木鶏の逸話は、「荘子」外篇・達生と、「列子」黄帝篇で語られている。
闘鶏でつかう鶏を鍛える話だ。相手の鶏が出てきて興奮したり、カラ元気を出したりするようでは強い闘鶏にはならない。

どんなに相手が挑発してこようとも、まるで木鶏のように、相手のことなどにかまわず平気にしている。そうまでなれば、どんな鶏でも応戦するものなんかなくなり、相手はみな恐れて退却するようになる。双葉山は、道場に木鶏の扁額を掲げて、ひそかにこの木鶏の工夫を積んでいた
ー 安岡正篤著「老荘のこころ」 p.106 よりー

 

 

企業研修参加レポート添削、学生の参加レポート添削をしていて、さっきの『我未だ木鶏足りえず』と言う言葉を思い出してしまった。ちょうど、学ぶ意欲のある人と、いやいや参加している人との差がで始めた頃。それは学生であろうと社会人であろうと成長ぶりが顕著に出てくるのには大差はない。

 

ただ、そこでいつも思う。本人のせいにするのは簡単だけれど、それで済ませるわけにはいかない。
会社からの参加命令で本意ではない参加であろうと、引き受けている自分がその気になってもらえるアプローチが足りていないんではないだろうか。

「自分は完璧です」などと言い切れるモノなど何もないし、完璧などもあり得ない。不完全だからこそ、学び続けるし、ましてや対するのは人。同じ様に発信していても同じ様には伝わりもしないし、受け取り方も様々。だから伝わる様に、その気になってもらえるように自分もまた成長し続けるしかない。

 

それでも弱い人間だから、つい相手のせいにしてしまいそうになる。
だから『我、未だ木鶏足りえず』は私自身の自戒の言葉にさせてもらっている。
毎日が勉強であり、成長の日々。

 

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